[フィレンツェ~ローマ④]アックアペンデンテ~ローマ
*XLV. VOYAGE (pp. 192-196)
自然の探求を愛する者は、アックアペンデンテからローマへの旅で、土地の大部分が火山性であることに容易に気づくだろう。
アックアペンデンテを出ると、道路は肥沃な高地に伸びる。サン・ロレンツォ・アッレ・グロッテ近くのトゥファ*1からなる丘のところどころに、岩の中に掘られた自然の洞窟や、おそらくポッツォラーナ*2を掘り出して作られた人工の洞窟が見られる。それらは羊飼いや農夫の休憩や、農具置き場に使われている。
今日サン・ロレンツォ・ロヴィナート*3と呼ばれる古い町の遺跡を見ることができる。この町は丘の麓の不健康な立地のため取り壊され、同じ丘の頂上にサン・ロレンツォ・ヌオーヴォと呼ばれる新しい町が建設された。続いて、かつてはエトルリア人の主要な町のひとつで、ウォルスキ族の首都であったヴォルシニウムの遺跡の上に築かれたボルセーナを通る。今日ではみずぼらしい村に過ぎず、教会の中庭にある古代の石棺のほか見るべきものはない。それから美しいボルセーナ湖に沿って進む。一周30マイルで、人が住む小さな島が2つある。湖はおそらく何かの火山の火口であっただろう。ボルセーナ一帯ほど、美しく甘美な景色を見られる地方はイタリアでもなかなかない。
湖の向かい、道路の近くにキルヒャー*4が言及している注目すべき丘がある。その丘は、玄武岩の柱または規則正しいプリズムで覆われている。それらは大部分が地上から斜めに長く突き出ており、ほとんどのものが六角形で端が平らになっている。
ボルセーナからすぐのところにあるオルヴィエートは、トゥファの上に築かれた町である。アクセスは難しいが、珍しいものを見るために馬で訪れる価値がある。大聖堂はゴシックの美しい建築で、ファサードは独特であり、彫刻とモザイクで豊かに装飾されている。彫刻家ニコラ・ピサーノがここで働いた。内部にも彫刻と美しい絵画がある。シニョレッリが壁画を描いた礼拝堂は芸術愛好家の注目に値する。神のごときミケランジェロがこの壁画を研究している。聖体の奇跡の礼拝堂は極めて装飾豊かである。この町では他にも、トゥファに穿たれた深い穴を見なけれなならない。穴は非常に巨大で、100個の小さい窓で照らされた150段の階段を降り、反対側の同じような階段を上る。オルヴィエートのワインは素晴らしい。
* * * * * *
木々の非常な古さのために伐採されずにいる深い森を越えると、モンテフィアスコーネへの道に出る。この町は丘の上にあり、美しさも人口も住みやすさもない。だが広大な地帯を見下ろしているため、遠くから見ると大都市のような雰囲気がある。実際昔はそうであったが、今ではワイン、とりわけマスカットワインで有名である。サン・フラヴィアーノ教会の中に、旅の途中ここで酔って死んだドイツ人聖職者の石碑がある*5。
モンテフィアスコーネからヴィテルボへの道は美しく、周辺の田畑は耕作されているものの、景色は物悲しい。土地はまだ改良されておらず、火山性の土と腐敗した植物で覆われている。ヴィテルボに着く前、右手に硫黄臭を放つ温泉がある。
* * * * * *
ヴィテルボは人口1万人程度の中規模の町で、チミーノ山の麓に位置する。城壁と塔に囲まれ、遠くから見ると美しい景色をつくっている。周囲には庭園が点在し、町の中は噴水で彩られ、建物は優雅で、教会のファサードは素晴らしい建築である。街路は4~8ピエもある大きな火山岩の敷石で完全に舗装されている。旅行者はとりわけ、ポルティコと威容のある複数の建物で飾られた計画的な広場、そしてバルダサーレ・クローチェが壁画を描いたプッブリコ宮*6、美しい絵画のある大聖堂、ロマーナ門の外にあるサンタ・ローザ教会と、かつて著名な文人ヴィテルボのエンニウス神父*7が暮らした旧ドメニコ会修道院、そしてミケランジェロのデッサンに基づくセバスティアーノ・デル・ピオンボによる死せるキリストのあるサン・フランチェスコ教会に注目すべし。
ヴィテルボを出ると、古い道がかつてキミヌス山と呼ばれた高い山を登っていた。山は北側で他の山と連なり、アペニン山脈につながっている。違う方向に敷設された新道路は素晴らしい。道の両側に自然に生えた草花が香っている。山は様々な種類の火山岩が不規則に積み重なってできている。ヴィテルボの土壌の肥沃さは、山々を覆う楢や栗の木によるという。
ロンチリオーネに向かって山を下る道は、ヴィーコ湖に沿っている。湖は林に覆われた丘に囲まれ、一周3マイルの美しい盥の形をしている。
左手に、ロンチリオーネを見下ろす山の上に位置するカプラローラを通り過ぎる。ここにはファルネーゼ家のカプラローラ宮殿以外目ぼしいものはない。ヴィニョーラによる五角形の城塞の形をした天才的な建築で、絵画はピエトロ・オルビスタによる。
凱旋門で終わる美しい道を進み、ロンチリオーネに到着する。豊かで人口が多く、ヴィーコ湖の近くに位置する。建物はトゥファで建てられ、城は素晴らしい見晴らしである。近くの谷は深くて美しく、ピクチャレスクな眺望が楽しめる。周辺にはトゥファに彫られた洞窟がある。田園は悲しく不毛な雰囲気である。農業はほとんど放棄されている。ロンチリオーネにはいくつかの製紙工場と製鉄所がある。
* * * * * *
モンテロージに着く前に溶岩の流れが見られる。モンテロージで、ペルージャ行きの道とローマ行きの道が交わる。モンテロージの城がある丘の頂上には、発掘された古代エトルリアの遺跡がある。ここからバッカーノまで火山性トゥファの丘が連なっている。周辺に注目すべきものはないので、自然学に関心のある者のほうが旅を楽しめる。
湖の近くにあるバッカーノからはサン・ピエトロの十字架の端が見え、ローマの町が見え始める。バッカーノの周辺の空気は湖のよどんだ水に汚染されている。
旅はずっと下り道となり、おそらくヨーロッパで最も放棄されている野原を通る。ストルタとテヴェレ川にかかるポンテモッレ*8の間、左手にネロの墓*9が見える。ポンテモッレからはフォリーニョとペルージャ行きの道に合流する。ポンテモッレに近づくにつれ、田園風景は心地よくなる。自然の良い土壌だが、見捨てられている。「聖パウロの遺産」*10中の土地がまったく耕作されておらず、ローマ平原は特に寂れている。
ポンテモッレからローマまでは、ピンチャーノ山とマーリオ山の間の谷間を通る。昔はエミリウス橋と呼ばれ、その後ミルヴィオ橋と呼ばれている橋は、ポポロ門から1マイル地点*11のフラミニア街道上にある。すぐ近くには、ローマ周辺で最も美しい近代建築であるサン・タンドレアのロトンダ*12が、広大な廃墟の中で威容を放っている。ポポロ門は高貴な建築で、この上なく豪華な入口である。門を入ると最初に大きな広場が見え、そこから市の3本の主要な道路が放射状に伸び、2つの美しい教会のファサードで挟まれている。中央には見事なエジプトのオベリスクがそびえ、その足元には噴水がある。
*3:原文はSaint Laurent ruiné。1844年版には現地語でSan Lorenzo Rovinatoとある。エトルリア時代からの長い歴史を有する町サン・ロレンツォ・アッレ・グロッテが1774年に取り壊され、別の場所にサン・ロレンツォ・ヌオーヴォ(=新サン・ロレンツォ)が建設されたため、前者は現在サン・ロレンツォ・ヴェッキオ(=旧サン・ロレンツォ)と呼ばれている。
*4:原文はKirkerだが、1844年版にはKircherとあり、17世紀ドイツ出身の著名な学者・聖職者アタナシウス・キルヒャーと思われる。
*5:この人物が家来を先に行かせ、旅路でおいしいワインがある場所にEst(「ある」)と書かせたところ、モンテフィアスコーネでEstを3回書いたという逸話が、Est! Est!! Est!!!という有名なワイン名の由来となった。
*6:プリオリ宮。
*7:原文にはEnniusとあるが、1844年版にはAnniustとあり、ドメニコ会修道士で学者のヴィテルボのアンニウス(1432-1502)のこと。
*9:俗に「ネロの墓」と呼ばれるプブリウス・ヴィビウス・マリアヌスの墓。
*11:約3kmである。
*12:円形のサン・タンドレア・デル・ヴィーニョラ教会。